昭和47年11月23日 月次祭



 難しさを感じさせる。先日から学院に今行っております、西岡さんか何度目かの便り参りました。何度目かというのは、大祭こちらあちらの要望で、あちらの学院生の、記念祭の記念出版であります、和賀心時代を作るというのが学院生全部に、それから教庁の要職におられる方達に、勿論学院の先生方にも全部お送り致しました。それを全部配り終わったと云う事が言うて来ておるんです。そしてまぁちょっと大げさでしょうけれども、手紙には、最近はいわゆる合楽ブームだと。
 和賀心時代を作るという、それでいうならば御本部が持ちきっておるという意味のことを言うてきております。しかも学院の講師であります先生方の中でも、哲学を究められた先生で、川上と言う先生がある。そちらは金光大神覚えを担当しておられる。前の学院長であった、佐藤博敏先生といや、もう教学者の第一人者でもあります。佐藤博敏先生が、教祖金光大神を担当しておられる。その金光大神覚え、または教祖金光大神の授業の時に、必ず、和賀心時代を、テキスト代わりに使われての説明。
 教祖金光大神、ここをかく通られた、是を合楽の先生はこう云う様な風に、具体的に通られたという事を、対照してお話になる。しかもそれはそれは詳しく、合楽の和賀心時代を作るという本を、それはそれは詳しくそれはもう、私共でもま考え付かない程しの、まぁ深さ広さを持ってお説きになると云う事が書いてあります。それは皆さんもご覧になった、また何回もお読みになっておられる事と思うんですけれども、それはもう実に私の話し言葉で話しておる事であるし。
 また私が通らせて頂いた、生まれる前後から、今日までの信心を語っておる訳でありますから、もう誰でも聞けばすぐ分かる様なお話の中に、その一駒一こまの中に、教祖金光大神が辿られた道はここだ。金光大神がこう言うておられる事は、合楽の先生はここはこう表現しておられるんだという風に、取り扱われている事はもう、大変な有難いことだ。偉い先生方から、毎月ここから出ておる、和賀心時代をぜひ自分の所にも送って欲しいという申し込みが一緒に来ておる。
 毎日二通多いときは、三通もその和賀心時代を読まれた先生方からの、その反響が手紙で来ております。言うならば合楽の信心が、世に問われてきたと云う事になる訳です。先日からの青年会の催しの時にも、北九連の青年の方がここへ一堂に集まってから、朝から夕方までお話を頂いたんですけれども。此処でこの事務所であの沢山のテープと、沢山な御理解感話集が出来ておるのを見て、驚いてしまわれてた。必ず是がねいわば世にでる時が御座いましょうと言うてま感心して帰られた。
 ある先生方なんかもう一遍改めて出直して、教えを頂きたいというて帰られた。ですから皆さんはいうならば、そういうその御教えを、二十数年いわば頂いて来られた。ですからもう実に信心の深さ広さ、まぁいうならば他の先生方のお話を聞くと、どの先生の話を聞いても何か浅く聞こえる。もうそげなこつはもう合楽のもんな、子供でん知っとるち言う様な態度とそんな感じですはね。
 その合楽の信心に最近ね、そういう例えば難しい事が分かるとか、それを知ったとかと言うだけでは役には立たない。そういう信心を踏んまえて、そして教祖金光大臣が、平易に平易に教えられる、その教えを本気で行じなければ、身に付けなければ、おかげは受けられないという事実に直面して、私共が今あの家の大祭を境に、例えば私のあの大阪行きを境に、取分けそれを日々まぁ維持続けさせていたいておる。例えていうならば、此処で皆さんがご神意を伺われる。
 先生右にした方が良いでしょうか、左にした方が良いでしょうかと。もう二十年間も信心してきたんですから、右にした方が信心だ。左にした方が信心だと云う事は分かるでしょう。その分かった所を、どうぞこう致しますというて願いなさいという。私はここ二三日私のお取次ぎの、変わっておる所はそう言う所なんです。今日も福岡の安藤さんから、電話ねがかかって来た。
 右にしたなら良いでしょうか、左にしたなら良いでしょうかとこう云う訳。だからあんた方の信心でこうした方が本当だと思う事を、先ず決めなさい。そしてその事を願いなさい。願うたらその事をお取次ぎさせて頂こう。よしそれが間違うておったらまた改めて、お伝えしましょうと云う様な生き方。ね。もういうならば、分かりきっておらなければならん。右を取るか、左を取るかは、もう分かっておらなければならない筈なんだ。日頃頂いておる教えから考えたら。
 それでもやはり安易な方へ、安易な方へもう親先生が仰る通りしておけば間違いがないち言うごたる風で、その右か左か問いう、いわばお伺いなどに、右だ左だと教えた時代はもう過ぎた。もう自分で右を取る事が左を取る事が本当だと云う事を願ったり、お取次ぎを願ったら良い。其処ん所からそのおかげが、成就するおかげを頂いたら良いのである。と言う風に段々、変わってまいりました。
 私は最近阿倍野の信心、伊藤コウと言う七十八歳になる先生のご信心を、まぁいわば傾倒しておると言う所で御座います。ね。そしてそれを合楽にです、神様もまた現在の合楽の信心がいけないというのじゃないです。今も申します様に、それはもう何処にもない素晴らしさである。昨日の朝のお届けの中に、ここの内田公子先生がお届けをした。「先生、今朝からこういう御夢を頂きました」学院時代に。
 あちらに信心旅行を致しております。時に大阪に参りました時に、願ってここの学院生だけは、阿倍野の教会にいわゆる、参観参拝をさせて頂いた。まぁ見に行った。であちらの親先生から、大変もう大変なおもてなしを頂いて帰ってきて、だから先生を知っておる訳なんです。その内田先生が、御夢の中に出て見えたのが、その伊藤コウ先生である。しかも若先生とお二人で、表のお玄関の所まで、今日はお礼参拝に合楽にお礼参拝に参りましたというて見えておられる。
 さぁどうぞお上がり下さいと言うたところが、もうその時間が御座いません。飛行機で帰りますから、もう此処でご無礼しますというて帰られた。それをあただにその親先生にお届けさせて頂いたら、はぁそんならその早うお土産なっとん託けにゃと言って、私がこう両方の手で、こうこぼれる様に沢山のヒスイとか、いろいろなすばらしい宝石を、手の平一杯に、公子さんにこう渡して、早う是をお土産に差し上げて来て下さいと言うて、というお夢であった。
 それから走って行って、先生こらあの親先生から託けられましたというて、差し上げた所が、もう飛行機に乗っておられる先生が、手を差し出されてから、手と手がこう合うたけれども、この宝石を渡す事が出来なかったという御夢である。今の合楽と阿倍野の、いわば交流のあろうとしておる事だとこう思います。はぁそら惜しかったね、そら阿倍野の先生に此処まで入って頂いて、此処で御祈念でもして頂かねばいけなかったね。こんだいっちょ、そこまでおかげ頂かにゃいけんよ。
 そうすると合楽のいわば宝石にもに似た様な素晴らしい信心を、また先生にお土産に持って行って頂けれると言う所に、信心の交流があるのだ。阿倍野の素晴らしい、日本一的信心にです、ね。所謂おかげの日本一といわれる阿倍野の信心にです、教えの日本一と言われる合楽の信心とが交流して、それが取り交わされた時に、それこそ鬼に金棒のおかげが受けられるのだと、私は最近もうしみじみ感じさせられるのです。ね。
 それをそう本当に信じなければ、思わなければおられないという事柄が、色々な事柄の中に現れて来るのです。昨日一昨日でしたでしょうか。伊万里の竹内先生が、奥さんと同道で、お礼参拝された。私は裏に控えておりましたら、今日は実は東京出張の帰りで御座いますと。帰りに大阪に下車してそして、親先生が阿倍野、阿倍野と言われるその阿倍野の先生にもお会いしたい。教会にもご参拝のおかげを頂きたいと思うて、お参りをさせて頂いた。所があいにく先生は、御本部参拝でおられなかった。
 若先生のお取次ぎを頂く。さぁ頂く迄に随分の時間が掛った。沢山の人がお取次ぎを頂いておる。そしてもう本当にまぁ懇々と信者の言い分を聞き取られてからの、御理解をなさっておられるのが、もうそれは実にもう何と言うか、まぁ通常的だとこう云う訳です。もう愈々私は阿倍野の教会に座らせて頂いておる時間に、愈々合楽の信心いやいや合楽の親先生にもうそれこそ一年でも長生きをして頂いて、合楽の信心を全国の信奉者に分かって貰わなければならないと思うたという事を伝えておられます。ね。
 おかげを受けておるという事実はもう、目の当たりにして見えておる沢山。けれども教えの深遠さと言った様な物には、触れる事は到底出来ないというのが現状である。なら、合楽の場合はそうではない。合楽の場合はもうそれこそ、先生たちでも知りなさらんごたる、いや先生たちがお話しなさったっちゃ、はぁ家の親先生ならあそこをもう一押し、向こうん所を話なさるというて聞きよるでしょう。ね。
 ですからもうそれこそ、耳は肥えておるのですから、ね。確かに耳だけは極楽行きをするでしょう。ね。けれどもその教えが血に肉になっていないと言う所に、おかげの受けられないいやおかげは受けておっても、本当のおかげ去年よりも今年、今年よりもと言うように、ね。言うならば日まさり月まさり、年まさり代まさりのおかげになっていないという事なんです。今日もその送って参りましたご本の中に、その竹内先生が見えた時も、そうだったんですけれどもそれで、竹内先生の報告を聞かせて頂いておった。
 そこへ高橋さんの奥さんが、先日から大阪へ行かれた時の、記念撮影をしておる、記念写真が出来てきております。その写真が出来上がりましたというて持って来た。竹内先生が、折角あの様におかげを頂いたけれども、親先生とはお目に掛かれなかったと言うてる所に写真が出来てきた。はぁそうですか、はぁこの方があちらの先生ですか、親先生ですかと言うて見せてきた。そうしよったら家内が勝手のほうから、今阿倍野から小包が到着しましたという。大きな小包が来た。
 今度の五十年の記念祭にそれを先生方にお配りになった記念品を、大坪総一郎先生と書いて送って来た。その中に今度記念出版になったご本を二冊送って来ておられます。阿倍野と言うご本です。もうそれこそまぁ食い付く様にして読ませて頂いております、毎日。もう殆ど読ませて頂きましたがどの一章、一章を読ませて頂いても、もう実に平易な事。今日読ませて頂いておる中に、こう云う様なお言葉があります。教えを頂く教えを聞くと云う事は、ね。神様のご信用を受ける事でありますと言うておられます。
 それはね耳で聞くというだけじゃない。親のいう事を聞くというでしょう、あの聞くなんです。うちの子供は、よう言う事を聞きますという。耳で聞いた時には、はいはいと返事だけしてから、動かんとがただ聞くだけなんです。合楽の方はこっちの方の聞くです。ね。だから耳だけは肥えて来ておる。それで耳だけ極楽行きする訳になりましょう。やっぱり是も皆んなが、極楽しなきゃおかげにならん。阿倍野の先生が仰っておられるのはね、教祖様の御教えを聞くと云う事は、親の言う事を聞くと云う事だと。ね。
 だから親の言う事を聞くから、あの氏子はと言う神様のご信用が着く。神様のご信用と言えばそのままが、御神徳だと。ね。そりゃあなたあぁたんとこは、その一人じゃ出来ん。明日から、家族中で参って来なさい。勢をそろえて信心すりゃ、おかげになるとはっきり、教祖様が教えておられるじゃから。あんたがたは五人おるなら五人、勢を揃えておかげを頂きなさい、もうそれこそ嘘じゃろうかと言う様なおかげが、展開して来ておるそっから。ね。と言う様にその教祖様の御教えをそのままです、ね。
 実行させておられると言う所に、阿倍野の先生の信心の、いわば力というか徳を感じます。お話も上手です。もう私は無学のおばあさんと思うとった所がどうしてどうして、ね。昔の師範高を出ておられます。ですからお話なんかも、立派にお話なさっておられます。けれどもそれは深さとか、広さという意味ではなくて、只教祖のお言葉を取り次いでおられる。しかも確信を持って取り次いでおられると云う事なんです。ね。昨日の夜の御祈念の当番が、末永先生がおかげ頂いておりました。
 今日の前講も先生が承っておりましてから、聞いて頂いておりました様に、もう本当に白真剣な、赤裸々なお話で御座いました。それに似た様な話を、昨日の御祈念の後にもしておりました。先日から、末永先生は、合楽で六年も修行しておりなさるげなが、あげな横着なことで良かろうかと言うた人があった。本当に言われて見たら、それ所じゃない。こげな横着な事で良いはずはないと思い当たらして頂いたという話である。沢山なごみを焼却するなら、一番奥の方にありますね。
 ゴミ焼き場がそれでもう、ゴミの全部と言うものをぽんとそこへ捨てて、そこで焼きよった。所がそういうた人が見ておったのにその中には、燃えない物もあればビン切れの様な危ない物も入っておる。それをそのままそのごみ焼き場で、焼いておるのを見てあげな横着な事で良かじゃろかと言われたと言われて見て初めて、もうどんなに高度な信心をさせて頂いても、ほんなその手元の其処ん所に、そういう事実を欠いた事で、おかげの頂けるはずはないと、自分で分からせてもろうたとこう言うのです。ね。
 阿倍野の信心はそれなんです。ね。今日もここでお話しをしておりました様に、修行生同士、言い争いがあったと。本当に自分たちが日ごろ、何の為に信心をさせて頂いておるか。ね。その後に痛感したんだけれども、私共の信心と言うのはいよいよ、信心を頂いておる値打ちを、発揮しなければならない時に、発揮が出来ないと云う事は、何と言う悲しい事であろうかと言うのである。ね。
 信心を頂いてしかも合楽で、六年間も親先生の膝元で、しかも教えを頂き続けさせて頂いておる自分が、修行生同士のあらを見合うて、ね。朝の御祈念の時であったから、ただちょっとした事の口争いだったけれども、後から言うほんなら、対決しようという意味なんです。後から私もあんたにいう事がある。私もあんたに言い分があるばいと言う様な事であった。その後に悲しい思いをしてる訳です。
 これで日ごろ頂いておる教えは、何処にあるのか。信心の値打ちを此処にあらさなければならない時に、現し得てないと云う事なんです。私は合楽の信奉者の全部に、それが言える事だと思うんです。ね。だからそういう、例えていうならばです。ね。デパートに売っておるそれも、全部神様の御物だ。だから金は払わんでもって来たっちゃ、別に罰かぶる様な事は無いと言った様な、まぁ極端な話をするならです。ね。
 その本当に御物であるという自覚が出来てからなら良いけれども、その自覚の出来んなりにデパートのものを黙って、お金も払わんなり、持ってきておる様な事柄が、日常茶飯事の中に、合楽の人たちはありはしないかと。ね。あまりに高度な話を聞いておる。あまりに広い大きい、それこそ大空の様な、大海原の様なお話を頂いておる。天地の親神様て、そげな小さな方じゃないと言う風に頂いておるから例えば、ね。信心のないものでも、しない様な事を平気でして、是で罰かぶると云う様な事はない。
 お気付けを頂くことはない。成程罰かぶる事もお気付けを頂く事もなかろうけれども、それではおかげが受けられないと云う事なんです。教祖金光大神は人間の生きる道なんです。生きる術なんです。生活のいわばあり方をご自身が実意丁寧神信心をもって、通り辿られておられてから、それから生まれて来る体験。そこに頂かれる神様の御教えを、話にして残しておって下さる、そのお話を行ずる以外はないと言うのです。ね。
 成程私はそういう生き方がです、いけないとは決して言いません。ようやくほんなら開教五年にしてです。こういうほんなら、広大な御広前が新築されたり、ね。綺麗になったりすると云う事はとてもただ事ではない。けれども是はね、いうならばただもういきなり、さんぱちくらって広がったという感じ。大きくなったという。ね。だぁれも束縛しない。曲げたり引いたり、そん代わり曲がっとるとは、曲がっとるなりどんどんこうやって伸びて行く。ね。真っ直ぐ伸びてるともある。
 斜めに伸びてるともある。そらもう一杯大きくいわば伸びた。それはそういう例えば、私のまぁ言うなら大きな信心と申しましょうか。ね。そういう信心がです。合楽でははびこっておる証拠が、こういういわばはびこり方をしたのだ。そこでほんなら此処に言うならば、阿倍野的信心がです入って来ると云う事になると、成程誰が見ても合点が行く。素晴らしい枝振りだなと。信心しよってあげな横着な事で良かろうかと言った様な事ではない。信心が是から身に付けられてくるという事になる。ね。
 ですから今までちっとこうやってしこり過ぎったり、斜めに伸びとるとは横にこうやって這うとるとやらは、どうしても切らなければいけない事になるのです。ね。お互い一つ教祖様は其処ん所をね。用心しなされやと神様は時々、ね。お錆変えがあると教えておられます。さびられるこうやって。実のあるとと実のないとは、こうやって錆ればすぐ分かる。ね。そういう時に錆られる時に、錆を吹き落とされる様な事でない、ね。
 例えば自分が、よがんどると思うならば本当に、ね、姿勢を正させて頂こうとする信心にならせて頂かなければならないという事になるのです。私は例えば先程の修行生の人達が、ね。その争いをしたという話を聞かせて頂いて、実を言うたら初めて聞いたです。先からの赤裸々な話を、末永先生がしております事から聞いて、そして此処で思わせてもらったです。もう本当に恥ずかしい事だなぁと思うたです。ね。
 自分の子供たちはもう言うこと聞かん。もう兄弟喧嘩ばっかりすると言うのは、あら親の恥です。親の重石がいわば効いておらんから、漬物が臭うなったり、酸いなったりするとです。重石が利いとらん証拠です。親の信心がなっとらん証拠です。修行生同士が喧嘩をするなんて、実におかしな話なんだけれどもね。もう兎に角私の信心をもう一遍見直さなければならないと云う事を、此処で先生の話を聞きながら思うた。ね。
 そして私共は思うのです。人の足元ばかりを見らずに、ね。自分の心の中を眺めて行くと云う信心になりたい。ある妊産婦の方が部屋に掛けられておる夜叉の面を見て、こげなんば掛けとると胎教に悪いからと言うたという話を聞いた。それで私はその方に申しました。あの夜叉の面を見るたんびにです。本当に自分の心の中にそれこそ、鬼じゃろか蛇じゃろか、夜叉じゃろかと云う様な心がありはしないだろうかと思うて見たら、自分を愈々慎み改めて行くより他にはない。
 もう素晴らしい胎教ですよと言うて話した事があります。ね。あの夜叉の面を見たら、あぁ怖い。はぁえすかとだけ見よると、それこそ自分の心の中に、それが写ってお腹にある子供にまで影響するというのである。ね。それというなら山本富士子のごたる、綺麗かつばずうっと見よると、山本富士子のごたるとが生まれる。ね。お多福さんのごとにこやかにしたつば見よると、にこやかつが生まれる。だからそげんとばぁっかりほんなら、見とりゃ良かろうけれども。
 世の中にはそこにも夜叉じゃろか、蛇じゃろかと言う様なのがあるのです事実に。ね。末永先生あんた六年間も信心修行しよって、そげな横着な事で良かのち。例えて言うたその人は、まぁだ、信心になったばかりの人が言うとるとじゃ。ね。自分の足元は一つも見てない。ただ人の足元ばかりを見て、ね。例えば合楽教会といや、立派な見事だと言うて、中に入って来て見ると様々な、いわば鬼もおりゃ蛇もおると言うのです。ね。富士山が、どんなに立派に見えておってもです。
 それは遠から見た姿であって分け上って見るとそれこそ、ね。溶岩の石がごろごろとした、是が富士山じゃろかと言う様な物である様に、何処にだってですそういう見方、そこだけを見るとそう云う事になる。それではおかげが受けられんのです。ね。人の不行状を見て、わが身の不行状になる事、ね。人の身の不行状を見たなら、自分の心の中にも、あぁ言う不行状なことがありはしないか。
 いや不行状なことがないにしてもです。これではおかげは受けられんと、いよいよ自分のことをいよいよ慎ましてもらい。自分を思い当たらせて頂き。またはそれが目に余るであるならば、その人の事を祈らせて頂ける程しの心こそ、信心ではないかと云う訳です。今日私は皆さんにです。合楽の信心の素晴らしさと、ね。いうならば、阿倍野の信心の素晴らしさが、一つにならせて頂いたら、ね。それこそ鬼に金棒的なおかげになるだろう。いや、なると云う事を聞いて頂いた。
 そして阿倍野の先生はそれこそ、見やすい見やすいその事を行じ、実行させておられる。今日は私皆さんに聞いて頂きたきたい事は、ね。今日のここだけを聞いといて頂たい事は、今の事。人の足元が見えるという時には、自分の足元はふらふらしておる時、自分の足元ばジーっと見とるなら、人の足元だん絶対実を言うたら気が付かんのです。人の足元ばっかり見て、足ばっかり取ろうと思いよる。自分の足元を本気で眺めておったら、人の足元だん気が付かん。それでもなお気が付いたならばです。
 夜叉の面を見たならばね。あぁいう心が自分の心の中にありはしないかと言う様な頂き方。そういう夜叉の様な心で、おかげは頂けませんよと思うたら、その人の事を祈らせて頂ける様な心こそが、おかげを頂けるのであって、そういうのが貯まり貯まって、私もあんたに言う事があるね。私もあんたに言い分があるばいと言う様な信心修行させて頂きながらそういうのが、貯まり貯まっておったと云う事は恥ずかしい事ですよね。ですからお互いが日常生活の中に、家庭の中に自分の仕事の現場においてですね。
 人の足元どん見るだんでなくて、自分の心を汚す様な事のない信心。いやそう云う物を見たら、見た程に自分の心が、しゃんとして来る様なおかげを頂いて行く。もう実に見やすいね。そういう信心を私は身に付けて行きたい。是から私はもう誰でも行じられる。誰でもその気になれば出来ると云う事をです。私は阿倍野の先生の、その御教話の中からヒントを得て、皆さんにも聞いて頂こうと思う。
 ですからそこを行じて行くうちに、成程合楽の信者じゃ、金光様の信者じゃ成程違うと云う事になって来る、私はおかげが頂かれると思うのです。信心のある者と無い者の違いが、そこにはっきり出て来る程しのおかげを頂いて頂きたいと思います。どうぞ今日泉南の教会の先生から、あちらへ行ってから二度目の手紙が来た。こっちから出さんなんとが、向こうから来た。しかし出さなければおられない衝動が起こっておるから、手紙を書いておられるのです。それがね時間た経つにしたがって、ね。
 先生あなたが泉南に訪ねてきて下ださったという事が、本当に嬉かった有難かった。本当に、準備の出来ずに、本当の歓待も出来なかったけれども、その後の事をだんだん思わせて頂けば思わせて頂く程、有難くなって来る事は、あなたが見えたのがいわば、阿倍野の教会の先生目当てであった。その阿倍野の教会に、丁度五十年という記念祭に、あなたが見えたと云う事は、どんなに考えても不思議だ。それからなおその翌日は、あちらの親先生と若先生とお二人で、わざわざ遠路私の所にお礼参拝に見えた。
 そういう感じであったけれども、ね。しかも記念祭のあくる日にです、ね。泉南の教会に親子で見えられて、合楽の先生と私の御広前で、面接面会があったと云う事は、もうそれは深い深い御深慮である事を、今更ながら思いますと云う事を書いてあります。ね。そういう例えば不思議な働き。君子さんが頂いておる御夢といい。久留米の井上さんがその時に頂かれた御夢といい、ね。鯛と鯉の交流の御夢ですね。
 例えば竹内先生が阿倍野の教会に、帰って報告に見えておる所に、記念写真は出来て来た、阿倍野から記念品が送ってきたと。たった十分か十五分間の間に、阿倍野、阿倍野、阿倍野と、茶の間の小さい部屋に集まって来ると云う事。ただ偶然の一致などとは思わずに、ね。もう愈々もって阿倍野の信心が、此処に流れ込んで来る。それを受け止めさせて頂くという信心をです。
 身に付けさせて頂いて今まで頂いてきた、合楽の信心にまた一枝添えさせてもらうと言う所から、鬼に金棒的なおかげが頂ける事を信じます。合楽の方達は、耳だけが肥えておると云う事。ね。聞いておる。阿倍野の信者さん方は、いわゆる教えを聞いておられる。教えを聞いておられると云う事は、親のいう事を聞いておられるという聞き方をしておられる。阿倍野の信者と、合楽の信者の違いはそこなんです。
 だから詳しい事、例えば信心の広さ深さを語らせたら、合楽の右には出るものはなかろうと思うくらい。それこそ学院の先生方が、今それを取り上げてです。テキスト代わりに使うておられると云う程しの物なんですから。ね。ですからそういう信心を、見につけて行くと同時に、ね。ほんの足元手元の所からです。先ずおかげを頂かせて貰うて、鬼に金棒的なおかげをお互いです、頂こうじゃないですか。ね。
 私も本当にそこの所に、いうなら、寝ても覚めても、今阿倍野の先生の事を考え続けさせて頂いております。ね。こういう信心が早うしとったら、さぞ良かったろうけれども、そこには深い深い神様の御深慮のあること。ね。今日ただいまであってです、ね。例えばおかげが受けられる。例えば○○教会の人が、教祖の御教えを説かれてもです。それを行じてもです。おかげの受けられないという事実があるでしょう。
 今私がいう事を聞くというか、身体で聞くという事になって来たらです。もうおかげの頂けれる機会がもう、ここに来ておると云う事をです。私は薄々感じるのです。ね。ですからもうまぁだ先生が、表の玄関の所迄しか見えてないという感じなんですけれども、ね。見えられた時にがばっとこう、頂けれる様なおかげを、姿勢を作っておかなければいけないと思うのです。
   どうぞ。